サッカーの日本代表は残念でしたねえ。まあ、それは別に書きます(笑)

タイトルの話なんですが、最近、ふと「何かの存在理由ってなんなのかな」と思いました。

私は今ここにいるわけですけど、それはなぜなのか。少しスピリチュアルな感じで考えれば何か使命があるのかもしれませんが、それは私の個人的感覚とはちょっと違います。まあ、真偽は別として。

私はなぜここにいるのか?
それは私が私として幸せに生き、笑って死ねるような人生を送るため
だと思います。

何が幸せかは人それぞれいろいろな考え方があると思うので何とも言えませんが、私の中では大きな方向を決める際に有効な指針だと思っています。こういう考え方をするようになったのは最近ですが。

要するに、自分のために生きているということです。
自己中心的な考え方(エゴイズム)とこれは少し違います
エゴで生きてしまうと、周りから人がいなくなってしまうので、私としては幸せではないです。
でも思いやりの範疇を超えたところでは、自分を優先してもいいのかなと最近思います。

その結果、それが誰かのためになっていたらそれが最高なわけです
逆に最初から「世のため、人のため」では周りからは称賛されると思いますが、自分の中で苦しくなってしまうのではと思います。

これは、社会にも国家、様々なものにも言えるのではないかと思います。

社会の場合社会が存続、維持、発展することが動機になります。
国家(権力)の場合国家(権力)が存続、維持、発展することが動機になります。
他人の場合その人自身が存続、維持、発展することが動機になります。


つまり、誰かや社会や国は自分のために何かをしてくれることは基本的に無いのではないかということです。
もちろん、たくさん良いことをしてくれる場合もありますが、それは自己利益とセットな場合が往々にしてあるということです。
利益は別にお金だけではありませんからね。
自己満足だったり、好いてほしいからだったり、感謝されたいからだったり、するわけです。
これを悪く言えば、「偽善」になるかもしれませんが、そんなこと言ったら大半の人間は偽善者ですよ。
中には本当に奉仕の心を持った人もいるのかもしれませんが、どうなんでしょ。

こう考えると、「社会のために○○したい(すべき)」とか、「国のために○○したい(すべき)」というのは利用されてしまっているということになります。
社会や国は私たち個人を助けたからいではなく、社会、国自身の利益のために行動規範をつくったりしているわけです。
その規範に素直に従ってもらうために、ありもしない「物語」をつくり、個々人を動員しようとします。

こういうことに敏感になっておかないと、社会・国・誰かの単なるコマとなってしまい、個人の存在理由が存在しなくなってしまうと思います。

私は私ですし、あなたはあなたですし、彼は彼ですし、彼女は彼女です。それ以上でもそれ以下でもありません。
良い人生を送るには、「自分」が主人公でないとダメなのです。誰かは「自分」の幸せのために行動してくれるとは限りません。でも、こういう考え方があれば、それはしょうがないと思えます。無駄にストレス溜めなくて済みます。

他人は自分のためになんか行動してくれないよ。
という、一見ドライな考えではありますが、自分を守ることができる考え方でもあります。

こんなことばっかり考えている私はいったいなんなんでしょう(笑)
でもまあ自分に哲学や信念を持っている人はなんとなくかっこいいですしね。そういう大人になれればと思います。
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