私たちは普段、過去に起こった「事実」を「解釈」することで、物事に意味を付与して体系づけて考えるという行為をしています。

しかし、事実と解釈を同一視してしまうと、ちょっと厄介な問題になるんじゃない?というお話です。

昔あったある出来事に対して、「当時は嫌だったけど、あれがあったから今の私がある」みたいな言い方をする人がいますよね。それはそれで全然構わないのですが、これをもってその出来事を正当化してしまうと話がズレてしまいます。

例えば、親に虐待されていた子がいたとして、大人になって「でもあれがあったから私は強く育った」と解釈していたとします。自分としてはそうでも解釈しないとやってられないというのもあるのでしょうし、自分自身を楽にするならそういう解釈はあってもいいとは思います。でも、これをもって「だから虐待はしてもいいんだ」となるのはおかしいと思いませんか?

これは「虐待」という社会通俗で明らかに批判されることなので、「そりゃあ、そうだろう」と思うかもしれません。

では、これは?

「体罰」→「でもあれがあったから、悪いことはしちゃいけないなと思った」→「だから体罰はOK」

色々な考え方があると思いますが、こういう論法のコメントをする方、結構多いですよね。
これは典型的に事実と解釈を混同して、解釈で事実の是非を論じようとしています。私なんかの立場からすると、「そういう問題じゃないだろ」と思うわけです。

あるいは、歴史問題でも。

「アジア諸国への進出」→「でもあれでインフラや識字率は改善した」→「だからあれはOK」

私から見る、右派の人はこういう言い方をよくします。
でもこれも解釈で事実の是非を論じようとしています。
(解釈ではなく、結果にこの場合近いので、何とも言えないところもあるにはあるのですが)

私が言いたいのは、「事実を論じるときは、その事実に関してフェアに論じるべき」というものです。解釈というのもそれを論じる際の一つの構成要素ではありますが、それだけでものを語るのはあまりにアンフェアです。倫理的、社会的、経済的などあらゆる要素からものごとを見て、事実の是非を決めるべきです。そのうち個人の解釈というのは、あまり優先順位は高くないと思うのです。

もちろん解釈というのは、私たちが生活する上で欠かせないものなので、なんら否定はしませんが、これを事実の是非判断の際に強く使用するのはいかがなものかなと思います。

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