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私たちは普段、過去に起こった「事実」を「解釈」することで、物事に意味を付与して体系づけて考えるという行為をしています。

しかし、事実と解釈を同一視してしまうと、ちょっと厄介な問題になるんじゃない?というお話です。

昔あったある出来事に対して、「当時は嫌だったけど、あれがあったから今の私がある」みたいな言い方をする人がいますよね。それはそれで全然構わないのですが、これをもってその出来事を正当化してしまうと話がズレてしまいます。

例えば、親に虐待されていた子がいたとして、大人になって「でもあれがあったから私は強く育った」と解釈していたとします。自分としてはそうでも解釈しないとやってられないというのもあるのでしょうし、自分自身を楽にするならそういう解釈はあってもいいとは思います。でも、これをもって「だから虐待はしてもいいんだ」となるのはおかしいと思いませんか?

これは「虐待」という社会通俗で明らかに批判されることなので、「そりゃあ、そうだろう」と思うかもしれません。

では、これは?

「体罰」→「でもあれがあったから、悪いことはしちゃいけないなと思った」→「だから体罰はOK」

色々な考え方があると思いますが、こういう論法のコメントをする方、結構多いですよね。
これは典型的に事実と解釈を混同して、解釈で事実の是非を論じようとしています。私なんかの立場からすると、「そういう問題じゃないだろ」と思うわけです。

あるいは、歴史問題でも。

「アジア諸国への進出」→「でもあれでインフラや識字率は改善した」→「だからあれはOK」

私から見る、右派の人はこういう言い方をよくします。
でもこれも解釈で事実の是非を論じようとしています。
(解釈ではなく、結果にこの場合近いので、何とも言えないところもあるにはあるのですが)

私が言いたいのは、「事実を論じるときは、その事実に関してフェアに論じるべき」というものです。解釈というのもそれを論じる際の一つの構成要素ではありますが、それだけでものを語るのはあまりにアンフェアです。倫理的、社会的、経済的などあらゆる要素からものごとを見て、事実の是非を決めるべきです。そのうち個人の解釈というのは、あまり優先順位は高くないと思うのです。

もちろん解釈というのは、私たちが生活する上で欠かせないものなので、なんら否定はしませんが、これを事実の是非判断の際に強く使用するのはいかがなものかなと思います。

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民主主義という言葉は色々な人が使う言葉ですが、非常に難しい制度です。

イギリスのチャーチルは「民主主義は最悪の制度である。民主主義以外のすべての制度を除けば」と語っていて、民主主義は決してベストな政治制度ではない、あくまでベターな政治制度であるとしています。

現実、日本の民主主義や他国の民主主義を見ても、問題は山のようにあります。どうしたらいいのでしょう。

私は多数決型ではなくて、「利益調整型」政治を行っていく必要があると考えています。どういうことか、書いていきます。

私は基本的にリベラル派の人間ですので、個人を尊重するという考え方を持っています。なので、政府や国というのは、社会が分裂しない程度に個人間のバランスをとることに注力すべきだと思っています。となると、まずもって考えるべきは損害を被ってしまう人への対策です。まずは、彼らの意見を尊重する必要があります。彼らを無視すると社会が分裂してしまうからです。

しかし、そういう人の意見ばかり聞いていると、公共の利益が侵害されてしまい、それ以外の人が尊重されないという事態になります。ここで、初めて公共側の意見を聞きます。

それぞれの意見が出たところで、「落としどころ」を探します。いわゆる利益調整をするわけです。

こうすると、ほとんどの人がやや不満だが、なんとか納得できるという状況に理論上持っていくことができます。こうすれば事実上かなりの賛成をもってその政策が実行されるはずなのです。これが本来民主主義が持つ機能なのではないかと思います。これは結構保守的な考え方です。急激な変化は望まない。変えるにしてもゆっくりと。ですので。

では、これをどのように実際の政治に反映できるのか。

まずもって、政策ごとに国会議員を選出します。(1政策10人ぐらい?)
また、議員の人数は比例代表の原則に従います。
議決は原則として全会一致、ただし、同一法案を審議可能なのは1年間で、ラスト一か月は3分の2以上の議決で足るものとします。

誰を選出するかは選挙人を介します。選挙人は原則として合議で利益調整を行う国会議員を選びます。国会議員は選挙人に責任を負い、議員は選挙人の意思により政治的行為をしなければいけないとします。その意味で、選挙人もまた利益調整に責任を負います。

選挙人は国民が直接選出します。選挙人は事前に政策への賛否を表明している必要があります。実際の投票では選挙人そのものではなく、政策に対する賛否を記入するかたちとします。こっちのほうが今より簡単ですね。選挙人人数は賛否数に従い、比例代表の原則で配分され、誰が選挙人になるかは立候補者からくじ(もしくは互選)で決めます。

選挙で問われる政策は、任期満了前に国会議員の五分の一以上の推薦をもって決められるものとします。

流れとするとこんな感じになります。
1.国会で選挙で問う政策を決める
2.任期満了(解散は認めません)
3.選挙人立候補
4.投票(政策の賛否のみ)
5.選挙人数ならびに選挙人確定
6.選挙人による国会議員選挙
7.国会議員確定
8.審議開始
9.両立場からの意見陳述
10.反対討論
11.修正案作成
12.国会議員団の選挙人団への説明
13.国会議員団と選挙人団の討論
14.修正案への賛否決定
15.国会での採決(否決されたら9に戻る)
※すべての議事は原則公開

ちなみにこうすると、国会は一院制でいいことになります。また、首相の選出は国会では行えないので、いわゆる首相公選制にせざるを得ないかなと思います。いっそ、大統領制にしてしまえばいいとも思いますが、どうでしょうね。なお、選挙前には提出されなかったが、重要な問題が発生した場合には緊急政令(刑罰は不可)というかたちで首相(ないしはそれに準ずる人物)が公布できるものとして、次回の選挙で改めて問われるものとするというかたちにしてはいかがかと思います。

うーん、こういう政治体制を考えたりするの面白いですね(笑)
ま、実際やるには結構問題があったりすると思いますので、ファンタジーだと思ってもらえればいいのですが、色々柔軟に考えていかないといけない時期なのかな、とも思っています。
では~。

「個人主義」という言葉は、使いどころや使い道によって色々な意味を付属させる言葉です。

個人主義はよく批判される言葉や考え方ですが、私は個人主義は「悪」ではないと思っています。むしろこれからの社会で絶対に必要なものであると思います。

何故そう思うのか?すこーし、学術的なお話も入れつつ、書いてみたいと思います。長めです。ごめんなさい。

ちょっと難しい話になりますが、社会学者にエミール・デュルケムという人がいました。彼は、「自殺論」などで著名な功績を残した研究者なのですが、彼は100年以上前のヨーロッパ社会をこう批判しました。

現在の社会は、連帯無き個人主義社会である。

彼は持論として、社会の進化を「連帯」という概念で示しました。
言葉で説明すると難しいので簡単な画像を使いながら説明しましょう。

まず、昔の社会というのは「機械的連帯」で成り立っていました。
個人の個性や考え、意思なんて関係ありません。仕事は生まれた瞬間から機械的に決まっています。

機械的連帯

ところが社会が、発展してくると、分業したほうが効率がいいことに気付き始めます。
私たちも何かやる時には、「分担しよう!」って思いますよね。それと同じです。

そして、分担、分業が進んでくると、個人の個性や考え、意思が重要な要素になります。
このようになるとやってくると考えた社会が「有機的連帯」の社会です。

有機的連帯

このように本来は、個々人が自分の個性に合わせて、社会や他の人に貢献していくことで「有機的」に、簡単に言えば生き物のように変化していくのが近代社会である、とデュルケムは考えていました。

ところがどっこい、現実はそうなりませんでした。

これが連帯無き、個人主義社会です。
みんなが自分のことしか考えておらず、誰かに貢献しようなどとは思っていない社会です。

連帯無き個人主義社会

しかし、個人一人が「これがしたい!」と思うことなどたいしたスケールではありません。また、すべてが実現できるわけでもありません。
それにこれで生きがいなどというものは作れるのでしょうか?
自分がしたいことを実現できるとというのは一見素晴らしいことですが、「それだけ」では不十分なのです。

人間は自然の欲求として、「誰かに必要とされたい」「認めて欲しい」と思うように出来ています。
しかし、連帯無き個人主義社会ではこの部分が決定的に欠けています。
そうすると、人間は二極化します。(この辺は私の持論です)

①エゴイズムを肥大化させ、ジコチュー化する(個人主義の徹底化)
②エゴイズムを抑え込み、集団に受け入れてもらおうとする(集団主義化)


あれ、どこかで見たことのあるお話だと思いませんか?

あなたの周りを見てみてください。
自己中心的で、自分のことしか考えていないような人、いませんか?
人間関係をつくることに固執して、SNSに浸ってしまっている人、いませんか?

これが現在の個人主義なのです。

個人主義を批判する人の中に、「自分勝手な人間が増えた」など言う人がいますが、「SNS依存」であったり、人間関係に悩む人というのも個人主義が生み出した一種の病気です。一見個人主義から遠く離れていますが実際はそうなのです。

では、個人主義は「ダメ」なのでしょうか?

私はそうではないと思っています。
まだ、人間は「有機的連帯」を目指せると思うのです。

お互いがお互いの補完をする。そうすることで、誰も不幸せにならない社会を構築できる希望はあると思っています。
もちろん、100%にするのは難しいでしょうが、理論上の話です。

お互いがお互いのことを尊重し、苦手なところを補ってもらう。
それが本来の個人主義社会であるはずです。


従って、個人主義が悪なのではないと私は思います。
きちんと個人主義の意味を理解できていない人々が問題なのです。

私は、個人主義の意味をきちんと理解した生き方がしたいと思っています。
まだまだ人生駆け出しの身ですが、自分を理解したうえで、他の人や社会に貢献していける人間でありたいものです。

私はゆとりど真ん中の世代です。

確かに円周率は「3」で計算する方法もあるよと習いました(実際は3.14というのもちゃんと教わってます)。また、台形の面積も公式では習いませんでした。

こんな話をすると、「ゆとりだから~○○」と言われたりします。このように世間では何かと「ゆとり」を悪口のように使う傾向にあります。

しかし、ゆとり教育は本当に失敗だったのでしょうか?

私はそうは思いません。私自身が何か実感しているということは無いですが、ゆとり教育の目指した精神はこれからの日本の在り方に沿ったものだったと思っています。今回は「ゆとり」とは何なのかを社会学的視点から考えてみたいと思います。
STAP細胞問題が一通り決着しそうですね。これを見ながら、今の日本社会の縮図だなと思いました。

「敵は本能寺に在り!」とは織田信長を討った明智光秀が言ったとされる言葉ですが、今の日本社会は常に敵を探してる感じです。

誰か(最近はネットが多いですが)が、「敵は○○だ!」となると皆がそれに乗っかり、よってたかって叩きます。

でも、それでなにかが解決するのかと言えば、何も解決せず、また新たな敵を探すのです。

明智光秀も三日天下に終わりましたが、戦略なく叩いても、何にもならないことというのはよくあることです。

まあ、こう考えると、明智光秀は実に日本人らしかったのかもしれません。一時の感情で動き、戦略が甘いという点で。(光秀は批判ではないですけれど)

批判というのは、相手や物事をより良くするための手段の一つにすぎません。
例えば、私のようなガラスハートの人間に批判をすると、よくなるどころが割れてしまいます(笑)
ならば、別の手段を考えるべきなのです。はい。

とにもかくにも、誰かや何かを戦略や未来志向無しに感情で批判することでしか、自分を持てない人にはなりたくないものです……。

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